何気ない一局が神の一手を生む。論文も同じ。

ヒカルの碁

指導教官から指示があり、卒業研究のテーマを考えている。

論文というのは不思議なもので、卒業論文という小規模なものでさえ新規性が問われる。

既に過去の誰かが検討した先行研究と、自身の研究内容が重複しないようにするためや、また過去にいかなる研究が行われ、いかなる論証・プロセスを経て現在の学説や理論が構築されてきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に整理していく

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E6%96%87#%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%95%B4%E7%90%86

今までにない研究を行い、新しい知識を生み出すという事にであり、その成果が学問において多大な影響をもたらすものであると、ノーベル賞獲得という事になる。

しかし、卒業論文程度のものとノーベル賞の話は関係ないだろ、と言われるかもしれない。

本当にそうだろうか。

おれが読んでいた漫画、「ヒカルの碁」に次の一節がある。

虎次郎が私のために存在したというならば、私はヒカルのために存在した。ならばヒカルもまた誰かのために存在するのだろう。その誰かもまた別の誰かのために。千年が二千年がそうやって積み重なってゆく。神の一手に続く遠い道程。私の役目は終わった。

ヒカルの碁 15巻

これは「藤原佐為(ふじわら の さい)」が神の一手を極めるシーンであるが、まさにここに研究の精神が表れていると思う。神の一手という極地に行くためには様々な対局があり、その対極で積み重ねられた経験、戦術がつもりに積もって神の一手という形で現出されるのだ。

研究も同じだ。誰かが書いた論文を読み、それとは異なるアプローチで実験を行い、成果を出す。その繰り返しによって偉大な一本の論文が出来上がっていくわけである。

藤原佐為の棋譜を見て感心する進藤ヒカル。

囲碁には過去の対局を記録した「棋譜」というものが存在し、これを見て勉強するという文化もあるようだ。 そういう意味では、研究と囲碁というのは共通項があるようにも思えてくる。

おれも偉大な発見とまではいかなくても、少しでも学問の一助になれるような論文を書けるように頑張りたい。

ヒカルの碁、久しぶりに読みてぇなあ。

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